あなたは「学ランって正式には何て呼ぶの?」と疑問に思ったことはありませんか?結論、学ランの正式名称は「詰襟学生服」または「詰襟型男子学生服」です。この記事を読むことで学ランの正式名称だけでなく、その語源や歴史的背景まで詳しく理解できるようになりますよ。ぜひ最後まで読んでください。
1.学ランの正式名称は「詰襟学生服」

学ランは通称・俗称である
学ランという呼び方は、実は正式名称ではありません。
これは「原チャリ」が正式には「原動機付自転車」と呼ばれるのと同じで、日常的に使われている愛称のようなものです。
学ランという言葉は誰かが商標登録したわけでもなく、また公式に制定された名称でもありません。
明治時代から自然発生的に使われるようになり、昭和50年代に漫画などで「ガクラン」という表記が使われたことで、改めて一般に広まった呼び名なのです。
正式には「詰襟型男子学生服」と呼ばれる
学ランの正式名称は「詰襟学生服(つめえりがくせいふく)」です。
より厳密に言うと「詰襟型男子学生服」または単に「学生服」と呼ばれます。
詰襟とは、首元までボタンやホックで閉めて着用するタイプの襟のことを指します。
この詰襟スタイルと、上下が同じ生地で作られている共布(ともぬの)であることが、学生服の大きな特徴となっています。
学生服メーカーの公式文書や教育現場の正式な書類では、「学ラン」ではなく「学生服」または「詰襟学生服」という表記が使用されています。
学生服との違いと関係性
広義では「学生服」という言葉は、学校の制服全般を指す言葉として使われます。
しかし狭義では、特に「詰襟かつ立襟の共布上下で、男子生徒・学生用の衣服」を指します。
つまり学生服という言葉には二つの意味があり、文脈によって使い分けられているのです。
ブレザーやセーラー服なども広い意味では学生服ですが、一般的に「学生服」と言った場合は詰襟タイプの男子用制服を指すことが多いです。
そして学ランは、その詰襟学生服の中でも特に金色のボタンがついたスタンダードなタイプを指す俗称として定着しています。
2.「学ラン」の語源と由来

「ラン」はオランダを意味する
学ランの「ラン」は、実はオランダ(和蘭陀)の「蘭」から来ています。
江戸時代の日本は鎖国政策をとっており、西洋諸国の中で唯一交易が許されていたのがオランダでした。
そのため当時の日本人にとって、「西洋」といえば「オランダ」を指していたのです。
西洋の学問を「蘭学(らんがく)」と呼んだのも、このような歴史的背景があったからです。
蘭学と同様に、西洋から伝わった服も「蘭服(らんぷく)」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の隠語「ランダ」「蘭服」が起源
「ラン」の語源には、江戸時代の隠語が深く関わっています。
盗人や香具師(やし)などの間で使われていた隠語に「ランダ」という言葉がありました。
これは「オランダ」を略した言葉で、舶来の反物や衣服を意味していました。
つまり「オランダ人が着るような服」という意味で「ランダ」「蘭服」と呼ばれていたのです。
この隠語は一般にも広まり、洋服全般を指す言葉として使われるようになりました。
「学生用蘭服」が略されて学ランになった経緯
「学ラン」という言葉は「学生用蘭服(らんぷく)」が略されたものです。
明治初期、洋装自体がまだ珍しかった頃、帝国大学や私立大学の学生たちが詰襟や帽子を着用し始めました。
当時エリート意識の裏返しとして、新しい学問である洋学を、あえて古臭い「蘭学」と呼んでいたという説があります。
そして蘭学を学ぶ自分たち学生が着る服を、半ば揶揄して「蘭」と「学」をひっくり返し「学蘭」と称したというのです。
これは「新聞種」を「ネタ」と呼ぶような、いわば学生たちの言葉遊びから生まれた表現だったと考えられています。
昭和50年代に漫画で広まり定着した呼び名
学ランという呼び方が一般に広く知られるようになったのは、実は比較的最近のことです。
江戸時代から隠語として細々と生き続けていた「学蘭」という言葉は、昭和50年代に漫画で「ガクラン」と表記されたことがきっかけで再び世間に広まりました。
1980年代前半頃は、「ガクラン」という言葉が長ランなどの変形学生服を指す限定的な用語として使われることもありました。
しかし現在では詰襟の学生服全般を指す言葉として、広く定着しています。
このように学ランという呼び方は、長い歴史を経て何度も形を変えながら、現代に受け継がれてきた言葉なのです。
3.学ランの歴史と誕生の背景

明治時代に始まった詰襟学生服
日本の学生服の歴史は、明治時代の近代化とともに始まりました。
明治維新後、政府は富国強兵のスローガンのもと、西洋文化を積極的に取り入れる開化政策を推進しました。
明治初期はまだ和服に学生帽というスタイルが一般的でしたが、1870年代になると状況が変わり始めます。
1873年頃、工部省工学寮や札幌農学校で詰襟の学校制服が定められたのが、最初期のものとされています。
その後1879年には学習院が海軍式の詰襟制服を採用し、学生服の普及が本格的に始まったのです。
東京帝国大学が1886年に制定したのが起源
現在の学生服に広く通じる起源は、1886年(明治19年)に東京帝国大学が定めた制服とされています。
当時の帝国大学初代総長だった渡辺洪基が、金色のボタンを用いた詰襟制服を採用しました。
同年、文部省通達により高等師範学校でも詰襟型学生服が採用され、その後師範・中学・高等中学・帝大・大学などでも次々と採用され始めました。
生地は羅紗やサージが使われ、色は冬服が当時の軍服に倣った黒または紺色、夏服は白または霜降りが主流でした。
ただし当時はまだ着物が主流の時代で、高価な学生服は都市部を除いてあまり普及せず、和服に下駄姿で風呂敷を持ち、学生帽を被るスタイルが一般的でした。
海軍士官型・陸軍下士官型の軍服がモデル
学生服のデザインは、明治時代の軍服を直接的なモデルとしています。
詰襟の上着の歴史は18世紀のヨーロッパに遡り、軍隊の制服として着用されていました。
その目的の一つは「男らしく凛々しく見せるため」で、首にしっかりとした襟があると顔が下がらず堂々と見えたのです。
日本でも学習院は海軍士官型の制服を、東京帝国大学は陸軍下士官型の制服を採用しました。
明治政府は「富国強兵」の理念のもと、軍人のような規律正しい国民を育てる教育を目指し、兵士と同じような詰襟の制服を学生に着せることで責任感や規律を身につけさせようとしたのです。
金ボタンに込められた意味とエリート意識
学生服の金色のボタンには、特別な意味が込められていました。
金色のボタンは軍隊の階級章の名残であり、学生たちがエリートであることを示すシンボルでした。
明治初期、洋装自体が珍しい頃、帝国大学や私立大学の学生が着る詰襟や帽子は、一般庶民には軍人と見分けがつかず、エリートへのあこがれと反発のシンボルとなっていました。
学生服は「日本の将来を担う貴重な人材」としての位置づけを視覚的に示すものだったのです。
また校章入りの金ボタンは、学校への帰属意識や愛校心を育てる役割も果たしていました。
4.詰襟学生服の特徴と構造

詰襟(つめえり)とは何か
詰襟とは、首元までボタンやホックで閉めて着用するタイプの襟を指します。
反対語は「開襟(かいきん)」で、襟を開けて着用するタイプです。
襟の仕立て方によって立襟(たてえり)と折襟(おりえり)に大別されますが、現在の学生服では立襟タイプが主流です。
詰襟は前面にボタンを配することで着脱を容易にした非常に自然な設計で、身体防護と保温の観点から極めて合理的な衣服の形式です。
上半身全体を覆う形式の被服として、最も原始的な衣料の一形式であるとも考えられています。
学ランの色が黒や紺色である理由
学生服の色が黒や紺色なのには、実用的な理由があります。
最も大きな理由は「汚れが目立ちにくい」という点です。
学生が日常的に着用する制服として、汚れにくく手入れがしやすい色が選ばれたのです。
また当時の軍服が黒または紺色だったため、それに倣う形でこれらの色が採用されました。
現在でも黒色または濃紺で無地のものが圧倒的に多いですが、学校によっては群青色、灰色、緑色、シャドーストライプなどの織が入った生地が使われる場合もあります。
襟カラー(白いプラスチック)の役割
詰襟学生服の襟に取り付ける白いプラスチックは「襟カラー」または単に「カラー」と呼ばれます。
このカラーが生まれた背景には、教育における平等の理念がありました。
もともと軍服の下には襟付きシャツを着るのが正装とされ、学生服でも同様に白い襟付きシャツを着用していました。
しかし戦後、家庭の経済状況により白いシャツを着られない学生もおり、襟元を見ただけで貧富の差が分かってしまうという問題がありました。
そこで「下に着るシャツに襟がなくてもいいように」という配慮から、制服に取り付けられる「カラー」が生まれたのです。
かつては布製のカラーもありましたが汚れやすかったため、安くて汚れにくい樹脂製のカラーへと変わっていきました。
ラウンドカラー(ソフトカラー)タイプの登場
1980年代には、新しいタイプの詰襟学生服が登場しました。
ラウンドカラー(ソフトカラー)タイプと呼ばれる、襟にパイピングが縫い込まれているものです。
このタイプは襟の部分に白色のパイピングが配されているため、カラーを取り付ける必要がありません。
現在ではこのラウンドカラータイプが主流となっています。
着脱の手間が省け、カラーを紛失する心配もないため、生徒や保護者からも支持されています。
近年の学生服は、伝統的なデザインを保ちながらも、快適性や利便性を向上させる工夫が随所に施されているのです。
5.学ランの現在と変遷

中学校と高校での採用率の違い
学ランの採用率は、中学校と高校で大きく異なります。
全国で詰襟学生服の採用率は、2000年代中盤のデータで高校で約2割、中学校で約7割となっています。
また2022年時点で20代の男性が中学生のときに着ていた制服の約6割が詰襟、約3割がブレザーというデータもあります。
つまり中学校では現在も学ランが主流ですが、高校ではブレザーが圧倒的多数を占めているのです。
高校では学校のイメージ戦略として、よりファッショナブルなブレザースタイルを採用する傾向が強まっています。
一方で中学校では、経済性や機能性、伝統を重視して詰襟学生服を継続採用している学校が多いのです。
変形学生服(長ラン・ボンタン)の流行
1970年代から1990年代にかけて、変形学生服が大流行しました。
最初は1960年代後期以降、一部の大学応援団において、袷が深く長めの学生服と腰周りが太めのズボンを誂えて着用することが始まりました。
いわゆる「長ラン」「ボンタン」と呼ばれる変形の代表的なスタイルです。
1970年代中期以降、中学や高校の校内暴力が社会問題化すると、長ランボンタンスタイルはツッパリを象徴する制服として生徒の不良化の徴候と見なされました。
1979年放送の「3年B組金八先生」第7回「学ラン長ラン大混ラン」というタイトルの回が象徴するように、この頃から変形学生服が中高生の間に広まっていったのです。
各学生服メーカーと教育委員会は1980年に「認証マーク制度」を発足させ、1982年には『標準型学生服認定基準』として全国統一基準認証制度を確立しました。
ブレザー化が進む現代の学生服事情
1980年代以降、学生服のブレザー化が急速に進みました。
1964年の東京オリンピック開催で海外選手団のユニフォームが注目され、制服のカジュアル化・スポーティー化が始まりました。
そして1986年、東京の喜悦学園が採用した紺のブレザーとタータンチェックのスカートというスタイルが大人気となり、入学志願者が激増しました。
制服で学校を選ぶ時代が到来したのです。
平成に入ってからもブレザースタイルの人気は衰えることなく、飛躍的に全国へと普及しました。
現在では多様性に重きを置く傾向が高まり、ジェンダーレス制服の導入など、学生服は新たな進化を遂げています。
第2ボタンを渡す風習の由来
卒業式に学ランの第2ボタンを好きな人に渡すという風習には、切ない歴史があります。
この風習は太平洋戦争時に遡ります。
出征する学徒が、好きな女性に自分の思いが伝わる大事なものを渡したいと考え、胸の第2ボタンを渡したのが始まりだといわれています。
兄弟で同じ女性(兄の妻)を好きになった弟が、出征前に自分の思いを伝えるために制服の第2ボタンを渡したという逸話があります。
この話は戦前から知られていましたが軍国主義の時代には封印され、戦後しばらく経ってから校長が生徒に話して聞かせたところから徐々に広がったとされています。
第1ボタンではなく第2ボタンなのは、第2ボタンが心臓に最も近い位置にあるためだという説が一般的です。
このロマンチックな風習は、青春のシンボルとして現代にも受け継がれています。
まとめ
この記事では学ランの正式名称について詳しく解説してきました。重要なポイントをまとめます。
- 学ランの正式名称は「詰襟学生服」または「詰襟型男子学生服」である
- 学ランという呼び方は通称・俗称で、公式名称ではない
- 「ラン」はオランダ(和蘭陀)の「蘭」から来ており、江戸時代の隠語が起源
- 「学生用蘭服」が略されて「学ラン」になったという説が有力
- 現在の学生服の起源は1886年に東京帝国大学が定めた制服である
- デザインは海軍士官型・陸軍下士官型の軍服をモデルとしている
- 金色のボタンは軍隊の階級章の名残でエリート意識を示すシンボルだった
- 襟カラー(白いプラスチック)は経済格差を目立たせないための配慮から生まれた
- 中学校では現在も約6~7割が学ランを採用しているが、高校では約2割程度である
- 1970~90年代には長ランやボンタンなどの変形学生服が流行した
- 1980年代以降はブレザー化が急速に進み、現代では多様な制服スタイルが共存している
学ランは単なる制服ではなく、日本の近代化の歴史や教育理念、社会の変遷を映し出す文化的シンボルです。その正式名称や由来を知ることで、日本の学生服文化への理解がより深まったのではないでしょうか。ぜひ周りの人にもこの知識を共有してみてください。
関連サイト
文部科学省
https://www.mext.go.jp/